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父の夢

2012.12.23 22:47|死生観
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(写真は清泉寺ブログより)

父とは、帰省する度に様々なことについて語り合った。父の昔話、仕事のこと、政治についてなどなど。そんな時の父は本当に嬉しそうで、お銚子の酒が終わると、「もう一本だけいくか?」といいながら、決して「もう1本」では終わらない(笑)。

酔っぱらった父が必ず口にする言葉は、「なせば成る 為さねば成らぬ何事も 成らぬは人の為さぬなりけり」。これは上杉鷹山の名言のひとつ。おそらく父はそれが鷹山の言葉だとは知らなかっただろう。小学校の時の校長先生がよくこの言葉を口にしていたらしく、それが父の座右の銘になっていたようだ。

確かにその言葉どおり、父は人生において、様々なことを成し遂げようと全力を尽くし、自分なりに満足することができる成果を上げてきた。それが誇りでもあっただろうし、息子である僕にもそのような生き方をして欲しいという気持ちがあり、酔っぱらうとついつい口にしていたのだと思う。

酔って顔を真っ赤にした父が、「なせば為る…」と語っていたことをつい昨日のことのように覚えている。実際は、最後にその言葉を聞いたのは、おそらくもう2年近く前のことになると思うが。

ある時、そんな酒飲み話で父が語っていたことが、今でも僕の心に引っかかっている。

僕が尋ねたのか、あるいは父が自分から言い出したのかは定かではないが、父は、自分の夢は無縁仏のための供養塔を建てることだ、と言ったのだ。僕も酔っぱらっていたので、父が何故そのような夢を持つに至ったのかは記憶していない。ただ、「夢」というには意外なことだったので、今でもよく覚えている。

母にも尋ねてみたが、父がそのような「夢」を持っていたことはもちろん、何故それが父が強く望むものであったのかすらも、思い当たる節がないという。

結局、ある一夜、父が語ったその「夢」がどういうものであるのかは、もう僕らには知る術がない。

これ以降は想像でしかないが、ひょっとしたら、父の友人、知人で恵まれない死後を送られた方がおられたのかもしれない。あるいは、彼は慈悲深い人間であったので、現世でなにがあったにせよ、亡くなって人は「仏」になるという日本的な仏教の理解の下、できる限り恵まれない「仏」が存在することを避けたいと考えていたのかもしれない。

ただ、ひとつ言えることは、「でかい家を建てたい」とか、「世界中を旅行したい」などという、僕も含めた俗世間に生きている人間が思い描く「夢」ではなく、自身とは全く関係もない無名の人間が亡くなった後、その行き場所に困ることがないよう、「所在地」を設けてあげたいという彼の発想は、欲に満ちた凡人である僕には想像だにできない発想だということだ。

僕の人生の途中で出会った、心から愛する女性が、姉のように慕っていた友人が早逝したことを深く嘆き悲しんでいた時、僕は彼女にこのような言葉をかけた。「彼女はこの世で果たすべきことを、誰よりも早く果たしたんだ。だから、神は彼女をこれほど早く天に召したんじゃないかな」。

僕の父もそうなのかもしれないし、父のようには家族に恵まれない人々でも、そのようにして次の世界に逝かれた方々が存在することもあり得る。

僕が語っているのはきれいごとだと十分理解している。人間は、汚くて、醜くて、どうしようもない存在であるというのは分かっている。そうではあっても、上述のように、死んで「仏」になった人にはもう罪はない。

僕は父よりも論理的、合理的な人間なのでこのような後付けの論理を展開している。しかし父は、本能的にそのような気持ちを抱いていたのではないだろうか。それが、「無縁仏のための供養塔」という発想に繋がったのではないか。

父は学歴もなく、大卒・大学院卒の同世代の方から見れば、「程度の低い」人間だと見做されるのかもしれない。ただ、父が本能的に、死者のみならず様々な方に抱いていた仏のような心を考えると、そうした社会的評価とは離れて、彼の魂のレベルはそのような方々をも上回るものであったのではないかと考える。

父のような素晴らしい人間が、何ゆえ、僕ら家族にこれほどの悲しみを与えて早々に去って行ったのかを考えると、少し悔しい気持ちになる。しかしそう考えるとき、若き僕が愛する人に語った、「この世で果たすべきことを誰よりも早く果たした」という言葉が自分に降りかかってくる。

お父さん、あなたはきっと十分この世で人様のお役に立ったんだよね。だから、この世を去らざるを得なかったんだよね。

僕はそう信じている。


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記録と記憶

2012.12.17 21:15|死生観
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父は何かにつけ、記録を残すことが好きだった。というか、それが習慣だった。

例えば新しくテレビを買うと、そのリモコンに「〇年〇月〇日」というふうに、購入日を記す。そのため、家にあるあらゆるものに購入日が記されることとなる。

「記録」は日付に止まらない。他にも、車のキーホルダーには車のナンバー、携帯電話には電話番号などなど。

そんな父は、癌で入院した病院でも主に二つの記録を残し続けた。一つは日々お見舞いに来てくださる方々のお名前。もう一つは朝昼晩と、一日3回行われる検温の際の自身の体温。上の写真は、父が実際に体温を記録したメモの一枚だ。

入院当初はきちんとした字で、メモ帳に体温を記入していた。しかし病状が悪化するにつれ、手が上手く動かなくなり、その字は徐々に乱れ始めた。上の写真は字を書くことが困難になり始めた頃のもの。

結局、父はベッドから一歩も動けなくなるまでこの記録を続けた。最後の方は、ほとんど読むことができず、記号のような数字であったが…。

そもそも、父はなぜ日付などの記録を残していたのか?父の生前には深く考えたことはなかった。帰省した時、様々なものに記された日付などを見て、「あー、親父相変わらずだな」などと考えた程度だった。

今思うのは、父の人生が父にそうさせていたのかもしれない、ということだ。父は貧しい家に生まれ、中学を卒業してすぐ「小僧」に出た。大工として職を得た後も、決して恵まれた生活を送っていたわけではない。

そんな父にとって、初めてバイクを買った時、初めてテレビを買った時、その喜びは僕には想像できないほど大きなものではなかったか。そうした事実一つひとつが、父にとっては大きな財産だったのだろう。こつこつ努力したことによって、着実に前に進んでいる自分に満足するとともに、僕ら家族を幸せにしているという充実感。父の想いはそのようなものであったと推察する。

その父が、どのような気持ちで、入院中に日々自分の体温を記録していたのかは、正直よく分からない。でも、上述のように身体が動くなるまでそれを続けたということは、その行為は彼の中では何らかの意味があったのだろうか。

ひょっとしたら、暇な時間の多い病院での生活の中での時間つぶしだったのかもしれない。あるいは、いつも何かを記録し続けた「記録好き」の父であったが故、その人生においての習慣ともいえる行為を無意識に続けていたのかもしれない。

いずれにせよ、その行為が全く建設的でないものであったことは父自身が誰よりも理解していたであろうし、それを見ていた僕ら周囲の人間にとっては、ひどく痛々しいものであった。

亡くなる数カ月前から、父の体温は常に37.5度以上くらいであり、それ以下になることは稀なことだった。父自身も身体の苦しさを感じていたであろうし、父が体温を記録する姿、そしてその数値を見ることは、僕らにとっても辛いことだった。

それでも父が最後までそのような行動をとったのは、いつか状況が好転するかもしれない、という淡い期待によるものだったのかもしれない。もしくは、日々動かなくなる手を鈍らせないための、父なりの努力だったのかもしれない。

父亡き今、僕らがその本当の意味を知ることはできない。しかし、こうしたメモを今見返してみると、死期が近付いていると分かっていた父が、最後の力を絞って、その過酷な人生に立ち向かっていたように思えてならない。

彼が残した記録は、彼自身の延命には何の役にも立たなかった。それでも、今それを見ている僕は、彼が最後まで決して勝つことのできない病魔と勇敢に闘った記録のよう思え、彼の勇気を誇りに思うと同時に、「お前も生きることに執着しろ」と父に叱咤激励されているような気分にさせられる。

父が闘病生活の中で残していった「記録」は、物理的には紙数枚でしかない。しかし、そうしたもの以上に、その勤勉さ、ひたむきさによって父が僕らに残してくれた「記憶」は決して褪せることはない。

実際父が書いた記録。そして、その行動が植えつけてくれた素晴らしい記憶。その両方をしっかりと胸に抱き、僕も母も、力強く最期までこの人生を歩んで行く。「記録」と「記憶」。それによって、父は今でも僕らに勇気を与え続けてくれている。


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誕生日

2012.12.13 23:05|死生観
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今日、12月13日は亡き父の誕生日。もし生きていれば、75歳を迎えているはずだった。

父の存命中は、特にその誕生日を意識することなどなかった。結婚していた頃は、当時の妻がプレゼントを贈っていたようだが、僕自身はほとんど無関心だったというのが正直なところだ。

でも今回は、父が去ってしまってから初めての誕生日。やはり何かを感じずにはいられないものだ。

ふと思う。父が生まれた時、祖父母はどんな気持ちだったのだろう。彼らにとって唯一の男児が生まれたその時、昭和初期という時代を考えれば、いわゆる「跡継ぎ」が生まれたことは、彼らに相当の幸福をもたらしたであろうことは想像に難くない。

その後祖父が早逝し、自分の思うとおりの人生を簡単には歩めない状況になるとは、その時生まれたばかりの父には想像だにできなかったことだろう。

そう考えると、生まれた時代、生まれた時、そしてそれ以降の家庭内の状況、また生まれた場所によって、ひとりの人間の人生は大きく左右されるのだということを、強く感じずにはいられない。

父が生まれたのは昭和12年(1937年)。歴史的にいえば、日中戦争が始まった年。日本人のほとんどが貧しかった時代だろう。家族の状況としては、彼の生後数年で祖父が他界し、祖母が女手ひとつで父とその姉妹4人を育てなくてはならなかった。生地は、冬季にものすごい大雪に見舞われる、新潟県の山奥のさらにまた山奥の、今は限界集落となっているところ。それが父の生誕時の環境であった。

一方、僕が生まれたのは昭和42年(1967年)。今でも続いている、ニッポン放送系のラジオ番組「オールナイトニッポン」が放送開始された年。両親に恵まれ、決して裕福ではなかったが、何不自由ない子供時代を送った。生まれた場所も、田舎ではあったが父の生誕地に比べれば、様々な面において、はるかに恵まれた土地であった。

山奥の集落に生まれ、片親であったため、みんなが貧乏な時代にあってもとりわけ貧乏な家で育った父は、高校に進学することすら許されず、中卒で職人になる道を選んだ。というか、発展性のない農家として生きていくか、手に職を付けるか、それしか選択肢がなかった。

僕はといえば、何不自由なく国立大学へ進学。就職活動もバブル時代であったので、超売り手市場で、一定の能力がある学生であれば、自分が入りたいと思う企業には誰でも入れた。つまり、選択肢はいくらでもあった。今就職活動をしている学生の方に対しては、心から申し訳ないと思える楽な時代だった。その後は、自分が学びたいと思う学問を学ぶため、あっさり大企業を辞めて留学。苦労知らずの、全くのバカ息子だったと思う。

しかし人生においては、誰しもが楽な時、苦しい時を経験せざるを得ないものなのだろう。

若い時に苦労した父は、腕のいい大工としてお客さまに信頼を得、所属していた建設会社で役員になった。そのおかげで、バカな息子は気楽に大学生活を送らせてもらうことができた。

一方僕は、留学後も順調に人生を生きていたが、一昨年の交通事故をきっかけに身体を壊し、今もその後遺症によって、これからの人生が全く見通せない状態にある。

誕生日というのは、ひとりの人間がこの世に生を受けたその日。そして、その人間の人生が、予め運命づけられたものであるのか、あるいはその人間が切り拓いていけるものなのかどうかは僕には分からないが、とにかく与えられた生を生き切ることを命じられた日。

父は、今日も含めて、この世で誕生日を迎えることは決してない。僕は…、あと何年この世で誕生日を迎えられるのだろう…。

自分がこの世に生まれた意味など、愚かな僕には全く分からない。ただ、自分自身の誕生日に加え、今は亡き父の誕生日を意識することによって、バカな自分が、何らかこの世界に貢献できることを考えたいと思うし、父が何をしたかったのだろうと考える日にしたいと考えている。

結局、何もこの世のためになることなどできないかもしれないし、寧ろ、たくさんの方々に迷惑をかける人生になるのかもしれない。ただ、父が生前語っていた、彼が成すべきと考えていたことを踏まえ、わずかながらでも、どなたかのお役に立てる人生を送れれば最高だと思う。

おそらくは、僕がそのように生きることこそ、亡き父が僕に期待している生き方のではないのかと、漠然と考えている。

素晴らしい父の誕生日に、バカな息子はこんなことを考えていた。


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夢の続き

2012.12.10 00:51|死生観
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数年前、実家を増築した際、一階の居間の横に倉庫のような場所が作られた。帰省した僕は、何のためにそんなものがあるのか理解できずに、母に尋ねたところ、近いうちにそこに新しい居間を作るとのこと。

増築に増築を重ねた関係で、実家の居間はすごく日当たりが悪く、常に電気を点けていなければならない状況にあった。そこで、大工である父が、近いうちにより日当たりのいい場所に居間を作ると母に約束したようだ。

母はそれをすごく楽しみにしていた。しかし、父は親戚、知人などから仕事を依頼され、実家の居間の新設は一向に進展しなかった。それに関して、母は僕が帰省する都度愚痴をこぼしていた。

「じいちゃんは他の仕事優先で、家のことは何にもしてくれない」。

父は入院間際まで親戚の家の改修に奔走していて、結局、実家の居間の新設に関しては何の進展もないまま検査入院し、そのまま帰らぬ人となった。結果として、母との約束は果たされなかった。

父が亡くなって以降、母はしばらく気が抜けたような状態だった。色々励ましてはみたが、それは母の心には届いていなかった。

ところがある日、母は、父との約束であった居間の新設をしたいと言い出した。僕としては何の異存もなかったので、昔、父の弟子のような存在であり、現在は自身で工務店を経営している方にその仕事をお願いすることにした。

少し前から仕事に取り掛かっていただき、今日現在の状況が上の写真だ。母は日々、その日の進捗状況を嬉々として僕に話し、僕も、正直それほど興味はないのだが、その話を聞いている。

思うに、母にとっては、居間の新設は父との約束であり、雪国の暗い冬にあって、日当たりのいい居間で過ごすということが夢でもあったのだと思う。

本当は、父にこの新しい居間を作ってもらいたかったのだと思うが、それはもう叶わない。それでも、父との約束であり、母の夢であったことを実現することで、母は父の存在を感じ、それがすごく嬉しいのだろう。

父の話をすると常に涙ぐむ母が、現在建設中の居間の話となると、すごく明るく、嬉しそうに話をしてくれる。それは息子であるぼくにとっては嬉しい限りだ。

母は、父が居間を作るという約束を果たさずに逝ってしまったと言うが、僕は思う。もしかしたら父は、母の夢を実現せずに去って行くことによって、自分がいなくなった母に希望を与えたのかもしれない。

事実、母は、初めて自分の部屋が与えられる子供のように嬉しそうにしている。

母が持っていた夢。そして、それを叶えてあげようとした父。結局、二人でその夢を叶えることはできなかったが、その夢のおかげで、母は生きる希望のひとつを与えられているように思える。

今の母を、父はどんなふうに見守っているのだろう。約束を守れずに申し訳ないと思っているのか。それとも、自分亡きあとも、母が楽しみを見出していることを喜ばしく思っているのか。

僕にはよく分からないが、父と母の約束、あるいは夢、それが父の死によって終わりを告げたわけではないという事実は、息子としては喜ばしい。二人の夢の続きを、今母が辿っている。

父と母、二人で夢を追いかけることはもう二度とできない。しかし、母が父との夢の続きを追いかけていることを、きっと父は幸せな気持ちで見守っていると信じたい。残されたその夢が、二人の最後の絆なのだと思うから。


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追憶の日々

2012.12.06 18:46|死生観
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歌舞伎俳優の中村勘三郎さんが昨日亡くなった。享年57。才能に満ちた巨星の、あまりにも早すぎる死だった。ご家族の皆さまの痛惜の念は如何ばかりかと察して余りある。

長男の中村勘九郎さんは上演中の歌舞伎での口上で、「父のことを忘れないでください」と述べた。また次男の七之助さんは会見で、「父の存在は僕らの中でこれからも膨らみ続けると思う」と話した。

父を喪った息子の気持ちを、お二人の言葉があまりに率直に物語っていて、とても他人事とは思えずに号泣せずにはいられなかった。

半年前の父の葬儀の席で、僕が喪主として挨拶したことが思い出された。

「父はこの世に生まれ、皆さまの温かいお心を受け取りながら成長し、そしてひょっとしたら皆さまの心に何らかのものを残せたかもしれません。父という人間がこの世に生きていたということを、どうか忘れないでやってください」。

息子として、父がこの世に存在し、色々な人たちと関わり、様々な思い出を残していったということを絶対忘れたくない。そして、父の周りにいてくださった方々にも、できれば父の存在を覚えていていただきたい。その気持ちが、僕にそのような挨拶をさせたのだと思う。

勘九郎さんもおそらく同じような想いで、「父のことを忘れないでください」という言葉を発されたのではないかと思う。

母との夕食の席。今でも毎日のように父の話題になる。

美味しい料理を食べている時は、「これをお父さんにも食べさせてあげたかったね」。特に父が好きだろうと思われるものの時は、「もう一度だけ、食べさせてあげられたらよかったのにね」。

時に母は寂しそうにつぶやく。「じいちゃん、忙しいのか、夢にも出てきてくれないね…」。

亡くなった人間とこの世で会うことは二度とない。では次の世界では会えるのかといえば、それは僕には全く分からない。愛する者を喪った人間ができるのは、その人との想い出に浸るか、もし今その人がここにいたら、と想像することだけだ。

そうしたことによって亡き人と対話を続けることで、何とか大きな悲しみを乗り越えていくしかない。あるいは、その対話がより大きな悲しみを我々に与えることになるのかもしれないが。

七之助さんが語った、「父の存在は僕らの中でこれからも膨らみ続けると思う」という言葉はそういうことなのだと、僕には思える。

自分の中で亡き人の存在が大きければ大きいほど、その存在は膨らみ続け、その人とのコミュニケーションは止むことがない。それは自分が死ぬまで続くのかもしれないし、いつの日か、その終わりが来るのかもしれない。

そうした追憶の日々が続くのが、人と人との関係なのだろう。僕は、それをとても美しいと思う。


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息子の祈り

2012.12.02 01:25|死生観
息子の祈り

今朝から降り続いた雪は、今屋根の上で40cmほど積もっている。雪国に厳しい冬がやってきた。今日、12月2日で、父が他界してからちょうど半年になる。

季節は夏から秋、そして冬へと移り変わった。しかし、父の命の時計は、半年前の0時5分で止まったまま。もう二度と動くことはない。

昨年の今頃は、僕は実家にはいたものの寝たきりで、父の見舞いに行くことすらできなかった。あっという間のように思えたこの1年だが、寝たきりで動くこともできなかった人間が、今はリハビリのため通うプールで、500mほど泳げるようになっていることを考えると、十分に長い時間だったのだということを実感する。

昨年の今頃…。とてつもない身体中の痛み・痺れのため僕は寝たきりで、いつ歩けるようになるのかも分からない。毎日天井を見上げるだけの日々だった。ひたすら自身の不幸を嘆き、父の無事を願っていた。人生に希望を失い、こんなふうに祈っていた。

「神さま、仏さま、誰でもいいからこの命を持って行ってください。その代り、父を生かしてください。僕はもういいですから。本当にもういいですから」。

心身の痛みで夜眠ることもできず、ひとり暗闇で泣きながら祈っていた。

そんな親不孝な祈りが通じるはずもなく、半年前、父は7カ月の闘病生活を経て、僕らを残して静かに去って逝った。

僕はいまだに迷いの中にいる。完全な健康を取り戻すことができるかどうか、全く分からない。心にもあまり余裕がない。ただ、今は神仏にではなく、亡き父に祈っている。

「おとうさん、ゆっくり休んでね。それで、少し余裕があったら、お母さんがいつまでも長生きできるよう導いてね」。

息子はまだ出口の見えない暗闇を彷徨っている。手を離れていってしまった人生の糸を取り戻そうとあがいている。それでも亡き父に母の健勝を祈ること。それが息子にとっての生きる目的のひとつになっている。

去って逝ってもなお、父は息子の生きる支えであってくれる。

「お父さん、ありがとう」。

父の死から半年たった今日、以前から好きだったこの曲を聴くと、いっそう心に染みる。みなさんも大切な誰かを想って、この曲を聴いてみてください。




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