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父の苦悩 Part 3

2012.11.28 23:42|死生観
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祖母の「嫁いびり」に苦しんだ母。しかし女手一つで育てられたがゆえ、母を擁護できなかった父。その父が、祖母が老いてきてから無視するようになったことに対し、無知で単純な正義感から父を非難した僕。

そのような思いが日常の生活で顕在化されなかったとしても、祖母が亡くなるまでの我が家の底流には、そうした人間の業のようなものが、間違いなく存在していた。

2003年、僕は海外留学から帰国した。その際見た祖母は、かなり弱っていた。それでも、よく帰って来たと僕の帰省を喜んでくれ、いい大人に小遣いまでくれようとする彼女の姿を、僕は心からありがたく感じた。

父と祖母の関係は相変わらずで、父は祖母を無視したような状況だったので、夕飯の時などには、僕が積極的に祖母に話しかけるようにしていた。

かと言って、我が家がギスギスした関係の家族であったわけではない。みんなの心の奥底にある多少澱んだような感情以外は、極めて幸せな一家であった。僕と両親の関係は良好そのものであったし、祖母も特に不幸せには見えなかった。

その2003年末から、長生きしてきた祖母の体調は急速に悪化し、寝たきりになった。そしてその祖母の世話を、昔ながらの日本の家では当然だが、母がすることになった。もちろん下の世話も含めて、ありとあらゆる介護である。

僕は、率直に言って、母がとりわけ人格的に優れた人間であるとは思わない。愚痴もこぼせば、人の悪口も言う。ごく普通の女性だ。しかし、ずっと苛められたり、嫌な思いをさせられてきた相手を、黙って世話することができるというのは、決して簡単なことではない思う。

当時、母はその姉に語ったそうである。「自分が苛められたから、なおさら、一生懸命ばあちゃんの世話をしようと思う」。母としては、苛められたら苛め返す、そうした因果応報的な人間の醜い関係を善しとしなかったのではないか。

そして、祖母が亡くなる日まで、母は自身のベストを尽くして介護を行った。最期に祖母は、それまで一度も母に伝えたことのなかった心からの感謝の言葉、「ありがとう」を残して去って逝った。

父はどういう気持ちだったのだろう?父の祖母に対する態度は最後まで変わらなかった。母がもっと祖母に接するよう促しても、父はそうはしなかった。

僕は父にとって、祖母の死が大きな痛手でないはずはなかったと思う。当然だ。祖父が早逝した家族の中で唯一の男児。おそらく誰よりも祖母の愛情を受けて育ったに違いない。父もその愛を素直に受け入れていたことだろう。

しかし、母が嫁いで来たことによって崩れてしまった、祖母と父の、母子の関係のバランス。そして、晩年は、おそらく母への後ろめたさゆえ、祖母を突き放すような態度を取ってしまった。そのことについて、父はどう考えていたのだろうか?

彼の子として、その性格を熟知している僕には、父はずっと苦しんでいたと思う。それは母への申し訳なさ、(母の手前)祖母へ思うように接することができない辛さ。何十年もの長きに亘って、間違いなく父は苦しんでいたはずだ。

しかし、その思いを誰にも伝えることはなかった。伝えずに去ってしまった。残された僕はただ想像することしかできない。父よりも小利口で合理的な僕は、誰にも遠慮せず、自分が言いたいことを言い、思うように振る舞えばよかったのに、などと考えてしまう。しかし…。このブログでいつも僕が口にする言葉だが、それが強い男であった父の生き方だったのだろう。

2004年に逝去した祖母。そしてその8年後の今年、2012年、父は最愛の母を残してではあるが、次の世界で、ようやくまた祖母に会うことができただろう。この世で絶えず抱えていたであろう苦悩から、ようやく解放されて。

父の苦悩は、僕のような人間には想像もつかないほど大きなものであっただろう。後悔をし、不安に思い、様々な葛藤の中、苦しい人生を生きたのだろう。繰り返しになるが、それは僕には想像もできない。

それでも、僕には確信を持って言えることがある。父は間違いなく、僕たち家族に幸せを与えてくれたということ。そして、父の周りにいてくれた多くのみなさんに、人間として非常に良い影響を与えたということ。

僕は想像する。次の世界で、父はおそらく小さな子供の頃に戻って、まだ若き時代の祖母に抱き着いて、泣きながら叫んでいるだろう。「かぁちゃん、ごめんね。きちんと接してやれなくてごめんね」。そして祖母はこう返しているだろう。「いいんだよ。私にはみんな分かっているんだから。いいんだよ。ありがとう、また私のところに戻って来てくれて」。

僕には見える。子供に戻った父が祖母と手をつなぎ、日溜りの中、彼らが生まれた山村の田舎道を歩いている姿が。確かに見えるんだ。
(この章完)

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父の苦悩 Part 2

2012.11.24 23:21|死生観
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祖母に女手一つで育てられた父は、祖母の「嫁いびり」を見て見ぬふりをするしかなかった。一方で母に対する同情、申し訳ないという気持ち…。その頃、父はどんな心境で人生を生きていたのだろう。

子供に、そんな父の苦悩が理解できるはずもなく、僕は何も知らずに育っていった。ただ、祖母が、あきらかに姉に対しては優しく、僕に対しては厳しいとは感じていた。僕と母の理解では、性格も容貌も母方に似ている僕は、祖母にとっては可愛くない存在だったのだと思う。母の気持ちを薄々感じていたことと相俟って、僕は彼女が大嫌いだった。

ところが、祖母が徐々に老いていき、僕が大学生になった頃、その状況は突然変わり始めた。父の祖母に対する態度が、目に見えて冷淡になったのだ。

父は無口な人間だったので、それまでも特別祖母に温かく接しているという感じではなかった。かといって、祖母の母に対する態度に意見するわけでもなかったが。実家を離れて大学に通っていた僕は、当然、年数回しか帰省しない。そんな僕の目から見て、父は祖母を完全に無視しているように感じられたのだ。

また別の変化もあった。姉は既に嫁いでいたのでその寂しさもあったのだと思うが、僕が帰省する度に祖母は温かく迎えてくれるようになった。僕の方でも、以前のような祖母に対する反発心もなくなり、できる限りやさしく接するようになり、それは、祖母が他界するまで続いた。

大人になり、母からそれまで母に身に起こったこと。つまり、祖母や、時に近隣に住む小姑たちのイジメ・嫌がらせについての話を聞くに及び、母の不幸に心から同情した。しかし、だからといって既に老いてしまった祖母に冷たく当たることもできなかった。全ては過ぎてしまったこと。そう考えるようにし、特に祖母に対して怒りはなかった。

一方で、祖母がまだ若かった頃は何も言えなかった父が、彼女が老いたからといって(そうかどうかは分からないのだが)、突然豹変し、祖母を無視するような行動はアンフェアに思えた。

まだ若く、人の気持ちなど分からず、人生を生き抜く苦しさを全く理解していなかった僕は、ある時、傲慢にも父に意見した。「なんでもっと早くからお袋を守ってあげなかったの?ばあちゃんが歳を取ったからって、急に冷たくするなんて卑怯だよ!」。

父はただ黙っていた…。

バカで未熟な僕の心ない言葉に、父はどれほど傷ついたことだろう。父親としてのプライドが、どれほどズタズタになっただろう。

父にも言いたいことは山ほどあったはずだ。祖父が早逝してしまったため、祖母が文字通り血の滲む想いで父を育ててくれたこと。その恩が重すぎて、母を守れなかった自分に対する失望。それでも心の中では間違いなく母を深く想っていたこと。

でも父は、決して言い訳しない彼の人生を反映し、その時も沈黙するのみだった。その沈黙の重さ、辛さ、苦しさ、無念さを理解するには、僕はまだ若すぎた。
(この章続く)

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父の苦悩 Part 1

2012.11.22 22:52|死生観
以前の記事でも書いた通り、父は4人の姉妹の中で唯一の男子。そうした状況から、父の母、つまり僕の祖母は父をとても可愛がっていた。父もその愛情、あるいは期待を背負いつつ成長していったと思う。

親子の愛情はとても美しいと思うし、それが永続するのは当然のことだと思う。しかし、その状況は、父のもとに嫁いだ母にとっては、過酷なものであったようだ。

可愛い一人息子のところに嫁いできた嫁。それは姑であった祖母にとっては、理屈抜きに「憎い」存在だったのだろう。母は、祖母による過酷な「イジメ」に遭遇することとなった。

例えば、母が姉を妊娠中であった時期、彼女は祖母に雪国の冬における、超過酷な労働である雪降しを強要された。しかも、父と共にではなく、母一人で、である。祖母の考えとしては、仕事で疲れている父にそんな労働はさせられない。嫁である母がそれを行うのが当然だろう、という論理であったと思う。

そのような祖母の姿勢に象徴される、息子可愛し嫁に憎しの思想。それに、とことん母は苦しめられた。

ある時、あまりの辛さに彼女は家出した。東京の実兄夫婦の家に逃避し、しばらく滞在したという。実兄夫婦は、「そんなところに帰る必要ない!」と主張したらしいが、結局、父が迎えに来て、母は鬼のような姑の待つ家へと帰った。

そんな中、首都圏に住む父の姉、僕の伯母が実家を訪ねてきた。彼女は埼玉に嫁いでいたのだが、突然帰省し、しばらく実家に滞在した。意図不明にしばらく滞在した後、嫁ぎ先に戻る直前になって、金を無心してきた。決して裕福でなかった父は自身の家族のことを考え、答えを躊躇った。当然のことだろう。そのやり取りに母は一切関知していない。

ところが、息子・娘が可愛い祖母は、母が父にその無心を断らせたと勝手に解釈し、伯母と共に涙ながらに母を詰り続けた。結局は、それにうんざりしたのか、父は苦しい家計の中、伯母にお金を貸すことにし、伯母は嫁ぎ先に帰って行った。

思うに、その時の母の無念さは如何ばかりであっただろう。自身が何も関与していないことで一方的に攻められ、しかも、貧乏な中でなんとか遣り繰りしている中から、突然100万単位のお金を持って行かれたのだから。

母は後年、「片親のところとは、子供を絶対に結婚させたくない」と語っていた。自身が流した涙のうえに、そのような考え方に到達したのだろう。
(この章続く)

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Please, please go to the hospital... -病院に行ってください!-

2012.11.20 21:39|死生観
父はとても健康な人間だった。検査以外で病院へ行ったことはほとんどなく、虫歯もない。病気とは無縁の人間だった。

そんな父に変調があったのは2年前に僕が帰省して、二人で大酒を飲んだ後のこと。僕が東京へ戻った後、父は38~9℃の高熱で数日間寝込んだ。それまで健康過ぎる人間だったためか、母が病院へ行くよう促しても、父は決して病院へ行こうとしない。困り果てた母が僕に電話を寄越し、何とか父を説得するよう依頼してきた。そこで僕は、父に絶対病院へ行って診てもらうようお願いし、それでようやく父は病院へ行くこととなった。

その時の診断は、胆石の可能性があるということだった。しかし、数日間病院へ通い点滴を受けたところ熱が下がったので、それ以降、父は病院へ行くことはなかった。

思えばこの時、父は既に胆管癌に蝕まれていたのだろう。しかし、なまじ自身の健康に自信を持っていたが故、また、すぐに熱が下がったことから、きちんと検査を受けることをしなかった。このため、もしかすると早期発見で救われたかもしれない父の命は、この世に生き残るための網の目をするりと抜け落ちたのだろうと思う。

母曰く、昨年の春夏の父の様子は明らかにおかしかったようだ。いつもは絶えず身体を動かしている父が、畑仕事の合間に、日陰で横になることが多くなっていたという。昔から必ず昼寝をしていた父ではあるが、その頃は、昼寝を終えてもなかなか起き上がらない、というか起き上がれないように思えたようだ。

夏が過ぎ、本当にどうしようもなく苦しくなったため10月に検査入院した時には、既に他の臓器にも癌が転移し、胆管という難しい箇所の癌であったことと相俟って、ほぼ手遅れの状態になっていた。

父は若い頃からの肉体労働で身体が鍛えられていたので、病気をすることもなく、自身の健康を過信していたのだと思う。たとえ健康に自信があったとしても、ある程度歳をとったら、少しでもおかしなことがある場合には、まずは病院へ行き、検査を受けるべきだと考える。

僕は小さい頃から身体が弱かったので、何かあればすぐ病院へ行く癖がついている。対して父は、あまりに健康であったがため、病院へ行くという決断がなかなかできずにいた、あるいは、病院へ行くのが怖かったのかもしれない。

今更どうしようもないことだが、2年前に父がきちんと検査を受けていてくれればと、悔やまれてならない。健康過ぎたが故、発見が遅れてしまったという皮肉な結果。当時僕が近くにいてあげられれば、状況は違っていたかもしれないと考えると、何もできなかった自分に失望する。

日ごろから身体を大切にし、自身の健康に自信を持つことは決して悪いことではない。ただ、僕の人生で出会った人々の中で、すごく健康に自信を持っている人は、得てして予期せず逝ってしまうこともままあった。父も同じような道を辿ってしまったことは残念でならない。

今日は上述のように父の死を経験した者として、是非皆さんに聞いていただきたいメッセージをお届けしたい。

皆さんの近親の方の中にも、自身の健康を過信している方、あるいは病院嫌いの方が必ずおられると思う。そういう方を、決してそのまま放置しないでいただきたい。怒鳴られても、暴れられても、もしおかしいと思われる現象があるのなら、無理にでも病院へ連れて行って欲しい。早期発見で救われる病人もたくさんいる。意地を張って命を落とすことになるということは、残された遺族にとってはものすごく悔しく、かつ悲しい。

意地を張って死んでいくのも、その人の哲学と言えるのかもしれない。ただ、その哲学を曲げさせてでも、僕は父にもっと長生きして欲しかった。もう何もできない僕から、是非、皆さんにお願いしたいこと。愛する人を、そんなことで死なせて欲しくない。救われる可能性のある命を、絶対に失わせないでいただきたい。自分が経験した悲しみを、拙ブログを読んでくださっている皆さんには決して味わわせたくない。それを心のどこかに留めておいてください。

不肖の息子から皆さんへのメッセージです。


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父への謝罪…

2012.11.19 22:44|死生観
僕の人生は、父へ謝罪しなくてはならないことだらけの人生だ。

決して豊かではない家庭環境の中で大学まで出してもらい、(いわゆる)一流企業に就職できたにも関わらず、10年で退職し留学してしまったこと。

その留学が主な原因となって、一度目の結婚を破綻させてしまったこと。

留学から戻った後、自分の能力を過信して転職を繰り返し、その都度不安な思いをさせてしまったこと。

結婚などしないと思っていたのに、自分の弱さゆえ再婚してしまい、結局、再度結婚に失敗してしまったこと。

また、二度も結婚したのに、一人の孫も親父に見せてあげられなかったこと…。

そして、父が死の床にあった時、僕自身が原因不明の病気で寝たきりになって帰省し、親父のことだけでも大変な母に、いらぬ負担を背負わせてしまったこと。

僕の人生は、常に父母に心配をかけ、彼らに甘えた人生。どうしようもない不肖の息子だった。それは十分自覚しているし、どのような言葉を持ってしても、あるいは心から反省の気持ちを表現したとしても、償い切れない大罪であったと思う。

加えて、最大の罪は、僕が最近まで父を信頼できていなかったということだ。

それについて述べさせていただきたい。

父が亡くなる1ヵ月ほど前、血の繋がりのない身内のある人物が父の見舞いに行った。その人物曰く、父は彼に、「息子が働かなくて情けない」と話したという。しかし、当時も現在も僕は足が麻痺しており、とても働ける状況にはなく、父もそのことを確かに認識していた。

その人物は肩を怒らせて我が家を訪れ、母がいる前で、僕に罵詈雑言を浴びせた。いい歳をして情けないのだが、僕はどうにも我慢ならず、その人物と取っ組み合いになった。

汚い言葉を使わせてもらえば、そんな「チンピラ」は僕にとってはどうでもいい。理性も教養も持ち合わせない人物と議論しても、時間の無駄でしかないからだ。僕が悲しかったのは、「親父、何でこんなチンピラに不条理なことを言うのか」という点だった。

その場にいた母は、「じいちゃん何言ってるんだ。お前はまだ病気なのに。話を聞いてみよう」と言ってくれた。でも僕は、明らかに死が近付いている父に無駄なストレスを与えたくなかったので、「お袋、もういいよ。親父を無意味に苦しめたくないよ」と伝えた。

それでも母自身、収まりがつかなかったらしく、父に、「じいちゃん、あの子にそんなこと言ったの?」と尋ねたらしい。父は、「えー、そんなこと一言も言ってないぞ。そもそもあいつは病気で働けないだろう」と、僕らとしては当然の回答をしたらしい。

その後父は僕を呼び寄せ、「あんな子供に何を言われたって、そんなこと気にするな。お前はでっかい気持ちで堂々と受け止めればいいんだ」と言ってくれた。既にうまく言葉が出なくなっていた父が、僕に明確にそう語った。

その言葉で、僕は父の言っていることが真実なのだろうと信じようとした。しかし、当時朦朧とすることも多かった父の状況を考えると、相手が誰か分からず、父が本音を伝えたのではないのか、という疑念を拭い去ることができず、その不信感をつい最近まで持ち続けてきた。

しかし、と考える。父が僕にそのような発言をしていないと言う以上、僕は彼の言葉を信じるしかないのだと思う。バカな「チンピラ」と父のどちらの言葉を信じるのかといえば、議論の余地なく父を信じる。それが息子として、また、45年人生を共にした人間同士として当然の帰結なのは間違いない。

上述のように、父に対しての謝罪ばかりだったのが僕の人生。最期に改めて父に謝罪しなくてはならない。「親父、親父の言葉を信じ切れていなくてごめんな。今後はブレることなく、親父の言葉だけを信じていくよ」。

他者の苦悩、背負っているものの重さ、そうしたものを考慮せず、深い思索もなく単純な正義感で人を傷つける人間はこの世に数多存在する。別にそのような種類の人間を責めるつもりはない。そうした人間は経験が不足しているのかもしれない。あるいは、人格に問題があるのかもしれない。いずれにせよ、堂々と自分の人生を歩んでいるのであれば、そんな連中に心惑わされることもない。

40を過ぎても情けない生き方しかできていない自分を恥じつつ、父に誓う。「親父が言ってくれたように、これからは堂々と生きるよ。だって、俺はあなたの息子なんだから」。揺れ動きつつも辿り着いたこの心境。天国の親父に届くといいな。


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父の絶望

2012.11.15 21:26|死生観
以前の記事で書いたように、父は昨年10月に入院したのだが、僕は寝たきりの状態で11月に帰省したので、父の手術に関する術前・術後の医師と家族との話し合いに参加することができなかった。

手術の様子、術後の経過などは母から伝え聞いてはいたが、母もうまく説明できないため、ずっと直接医師から父の病状について話を聞きたいと考えていた。2月後半に車を運転できるようになり、病院へ父を見舞うことができるようになったので、看護師さんにお願いして、3月前半に医師と面談する機会を設定していただいた。

既に術後3ヶ月経過していたにもかかわらず、父の状態は一向に改善しているようには見えない。そこで、父の主治医から、率直にあとどれくらい父が生きられるのか聞きたかったので、父には内緒にしておいて欲しい旨、事前に伝えておいた。

ところが迎えに来た看護師さんが父も同席してほしいとか、理解に苦しむことを言っていたので面談室に行ってみると、医師は、父と僕と母に今後の治療方針の了解を得ることを目的として面談を迎えているようだった。こちらの意図は全く伝わっていなかった。止むを得ず父も同席のうえ、父の現状の説明を受けた(この医師達とはディスコミュニケーションの連続で、こちらが望むことを看護師さんを通して医師に伝えてもらっても、常にポイントがずれた対応ばかりで、それに苛立ったことも多々あった)。

医師の説明では、既に4カ月入院していた父は、癌の進行のため、さらに少なくとも数カ月の入院は必要だとのこと。誰がそんなことを言ったのかは分からないが、父自身は、非公式ながら近く一時帰宅できると聞いていたようで、医師の説明に呆然としていた。その時の、父の深い悲しみ、あるいは絶望に満ち、力を失った瞳を見たとき、僕はその場に崩れ落ちそうになった。

父は本当に強い人間だった。人に弱いところなど見せない、僕のヒーロー。スーパーマン。だから、40年以上人生を共にした僕も、父のそんな弱々しい眼を見たことがなかった。それだけに、父が感じたであろう絶望感に匹敵するほどの落胆を、僕自身も感じていた。

力を落として医師のもとから病室へ戻り、ベッドに倒れこんだ父に僕は、「絶対大丈夫だから。死んでも俺が親父を家に連れて帰るからな」などという根拠のない激励をするしかなかった。こちらの気持ちを理解してくれない医師達に、父に幸いを与えてくれない神仏に、そして誰より口先だけで何もできない自分に一番腹が立った。僕は無力だった。

今考えると、父はおそらくこの時点で、自分が二度と家に帰ることはできないと悟ったのだろうと思う。絶望感で一杯だったことだろう。しかし、父はそんな絶望も、周囲への不満も、そして病人にはつきものの理不尽な我儘も、一切を胸に抱えて去って行った。その姿は、僕がずっと見てきた父そのものだった。

人は絶望を感じたとき、それを自分自身の胸にだけ仕舞い込んでおけるのだろうか?自分の人生の終わりを認識したとき、それを誰にも伝えずに去り逝くことができるのだろうか?僕には到底できそうにない。しかし、父はそのような人生を送り、そのように去って逝った。なんという男だろう。

だからこそ、父が人生の中で一度だけ見せたあの絶望を、彼の瞳に一瞬だけ浮かんだあの色を、僕は一生忘れることができない。


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父の最期

2012.11.13 20:55|死生観
今日は、2012年6月7日に自身のFacebookページに掲載した内容を転載させていただきたい。6月2日に他界した父の死の瞬間をどうしても記録に残しておきたいと考え投稿したものだ。


父は、死の数日前からいつ亡くなってもおかしくない状態でした。5月31日にドクターから念押しのように、今この瞬間逝く可能性もあると伝えられ、病院に泊まり込むことにしました。6月1日の夕刻、同じ病院に入院中の母に、少し部屋で休むように勧めたところ、9時まで休んだ後、父の病室に戻ると言い残して病室を去りました。

その後、以前投稿したようにドクターが父の病室を訪れ、その時45だった血圧の上の値を見て、父があり得ない状況の中でまだ頑張っていることを教えてくれました。9時を過ぎると血圧は45を切り、脈拍も85くらいになってきましたが、僕が脚を叩き、「戻って来い」と呼びかけると数値は上昇しました。数値を示すモニターを見ながら、僕が呼びかけたり、父の身体を叩いたりすると状況は好転するので、あたかも僕が父の最期をコントロールしているような気持ちになりましたし、事実、コントロール可能でした。母はまだ父の病室には戻って来ませんでしたが、もう少し休ませてあげたいと思い、あえて母を呼ぶことはしませんでした。僕には父の状況が大体理解できるようになっていましたので、ぎりぎりまで母を休ませてあげたいと考えて。

僕が父についている間に父は喀血しました。肝機能が完全に失われていたので、血を止めることができなくなっていたのです。また、かなり痰が絡んで苦しいようで、看護師さんから何度も口と鼻から吸引をしていただきました。その痰には血が混じり、吸引してもらう度に、父は相当苦しそうな表情を浮かべ、唸り声を上げました。

11時頃、母が寝過ごしたことを詫びながら慌てて父の病室へ戻って来ました。僕は、わざと呼ばなかったと説明し、その後は二人で父を見守りました。母に、父の状況、苦しそうだった様子を伝えると、「じいちゃん頑張ったよ。もういいんじゃないかな」。僕が脚を叩いたりすれば、まだしばらく生き続けられることを伝えても、母は、もう父を苦しめたくない、という気持ちが強いようでした。僕が父をなるべく長く生かしたいと考えたのは、あと数時間頑張れば、孫たち(姉の子供たち)に会える可能性があったからです。その点を考慮しても、母はもう父を逝かせてあげたいようでしたし、僕も同じ気持ちでした。それで、もう何かすることを止め、自然のままにすることにしました。

母が左手を、僕が右手を握る中、父の脈拍は、70、60、50と、どんどん下がっていきました。僕は「親父、お疲れさま。本当にありがとうございました」と涙ながらに言いつつも、母に、「本当にこれでいいのかな」と問いかけました。母も涙を流しながら静かに頷きました。そして二人で、モニター内の脈拍の数値が0になるまで父の手を握り続けました。父の息遣いはどんどん穏やかになり、最後は呼吸がなくなりました。

これが父の最期の様子です。こんなことを読むことに不快感を覚えられる方もおられるかもしれません。それでも、僕はどうしてもこの事実を記録に残しておきたく、また、どなたかに共有していただきたく、あえて書かせていただきました。父の人生は華やかさとは無縁のものでした。社会的地位、名誉、金銭的要素、どれをとっても至極地味なものでした。ただ、そのような父こそ、僕にとっては誰よりも尊敬できる存在であり、彼を知る多くの人たちに愛された人間であったことを決して忘れずに生きていきたいと思います。



これを書いてからもう5ヶ月。季節も、少し汗ばむような初夏から、雪国に厳しい冬の訪れを予感させる晩秋となった。いくら時が過ぎ去って行っても、僕は父の死の瞬間を忘れることはできない。

僕は偶々病気療養で実家に戻っていたため、父の最期に立ち会うことができた。首都圏でサラリーマンをしていたら、おそらくそれは難しかっただろう。それでも、今でも自分に問いかけることがある。僕がそこにいることができたのは幸せなことだったのだろうか?

確かに父の人生の最後の数ヶ月を共に生きることができたことは、心から幸せだったと思う。しかし、父の命が徐々に薄れていくのを、傍観者として見つめ続けたショックは思いのほか大きかった。ある種のトラウマと言えるのかもしれない。例えば、それがドラマであれニュースであれ、テレビで入院患者の姿を観ると胸が苦しくなる。また、心拍数低下を知らせる器機の、あの独特な音を聞くと、一瞬軽いパニック状態になり、テレビをオフにしてしまう。

しかし、と一方で思う。もし父を見送ることができなかったとしたらどうだろう。自分に生を与えてくれ、育ててくれた人。そして自分が最も尊敬し、心から愛する人の最期の瞬間、その場に自分がいられなかったとしたら…。

40年以上この世に生きてきて思うのは、ありきたりな表現かもしれないが、行動を起こさなかった時の後悔の方が、行動を起こした時の後悔よりも大きい、ということだ。僕の場合は、父の死に際して地元におり、もしどうしても嫌なら父の死の瞬間を見る、という大きな悲しみを避ける選択もできた。しかし僕はその死に立ち会うという選択をした。というよりは、その選択以外は考えもしなかった。

上述させていただいた父の今際の際を思い浮かべると、今でも息苦しくなり、涙を抑えることができない。しかし、僕の人生における父の存在の大きさを考えると、僕がその死に立ち会うことは息子としての義務であったと思う。数奇な運命を経て、最期の時を過ごすことが許された親子。そう、「許された」のだと僕は思う。この先記させていただくであろう僕の人生を考えると、「許された」というのが正確な表現の仕方なのだと今は思う。


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人間万事塞翁が馬

2012.11.09 23:47|死生観
僕は一昨年の夏、車で停車中に後ろから追突される事故に遭って以降、足の指先から膝にかけての辺りが痺れるような、麻痺しているような症状に悩まされるようになった。当初は軽いものだったが、徐々に症状が悪化し、痺れ痛みが全身に広がり、昨年の春頃には、歩くのがやっとという状態になった。

首都圏で数件の総合病院を訪ねたが、MRIで何の異常も見られないことなどから原因不明で、「精神的なものでしょう」とされ、何の治療も施されなかった。仕方がないので知人の医師から痛みを抑える可能性のある薬を処方してもらったのだが、その副作用のため、「薬剤過敏症症候群」という重度の薬疹に見舞われ入院することとなり、完治には1年前後要するとされた。

何とか退院し、しばらく経った昨年の秋、母から父が癌の疑いで検査入院するとの連絡があり、10月に父の入院生活が始まることとなる。結果は胆管癌で、その他の臓器にも転移している可能性があるというもの。担当医師から、「手術をしなければ3~5年の命」と聞かされた父は手術を決断した。

その話を聞いた僕は、一刻も早く実家に戻りたかった。自身も寝たきりで介護を必要としていたため、なおさらだった。しかし、きちんと僕を再検査してくださった近くの総合病院の検査結果を待たなくてはならず、結局地元に戻れたのは父の手術直前の11月半ば。

寝たきりの僕の面倒を見てくれたのは年老いた母。彼女自身も手術が必要なほどの痛みを抱えながら、入院中の父の世話をし、寝たきりの僕の面倒を見てくれた。しかも豪雪地帯にある実家では、冬の雪下ろしをしなくてはならない。それも彼女の仕事…。そんなハードな生活を彼女は数ヶ月続けた。

本当に情けなかった。父が命の危機にあり、長男である自分が母を支えなくてはならないのに、逆に足手まといになる始末。

父も僕も回復の兆しがなく時が過ぎたが、ある時奇跡が起きた。

年が明けて、父が3月には一時帰宅できるかもしれないと聞いた僕は、それまでに絶対歩けるようになると決心した。毎日寝たきりで天井を見上げている日々だった。それでも、父のため母のため、何とか足手まといにならないようにと、自分を励まし、3月には絶対に歩けるようになると自分自身を信じた。

2月前半辺りから徐々に身体の痛みが弱くなり始め、後半には、まだまだ不自由ながらも少しは歩けるようになり、何より車の運転ができるようになった。それまで、母は大雪の中、毎日バスで父の病院に通っていたのだが、僕が車で連れて行ってあげられることに。僕自身も、月1回の病院での診察の時にしか父に会えなかったのだが、いつでも会いにいけるようになった。

結局、父は3月に退院することはできなかったので、僕と母は毎日車で病院に通い、それは父が亡くなる日まで続いた。

「手術をしなければ3~5年」と言われた父の命だったが、11月末の手術から約6か月後の6月、この世から消えてしまった。

僕が原因不明の病気になってしまったことは、人生でも最大クラスの不幸だった。僕が家に戻ってから、たった半年で父が逝ってしまったことも、その不幸をはるかに上回る悲しい出来事だった。それでも、この時、このタイミングでしか父を見送ることができなかったであろうことを考えると、実は、僕はとても幸せな人間なのかもしれない、とも思う。

車の運転ができるようになってからの約3ケ月間、僕は毎日父に会うことができた。それほど長い期間父と一緒にいたのは、高校を卒業して家を出て以来初めてのことだった。そして、父が息を引き取る瞬間、母と共に彼の手を取り、最後の言葉をかけることができた。

僕の身体は今では相当回復し、日常生活にはほとんど支障がない。それでも、まだ足は麻痺しているし、手の指の痺れも取れていない。薬剤過敏症症候群も完治していない。でも、この病気がなければ、僕が父とのこんな最期の時間を持つことは決してできなかっただろう。

父の死に、そして僕の病気にどんな意味があるのかは分からない。しかし、何か幸せなことを得るためには、何かを犠牲にしなければならないのかもしれない。父との幸せな最期を手に入れるための犠牲が僕の病気なのだとしたら、その程度のことは僕は喜んで受け入れる。そして、最高に幸せな父との思い出を与えてくれた神に心から感謝する。


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死が家族を分かつとも

2012.11.06 22:11|死生観
Our dead are never dead to us, until we have forgotten them.
-George Eliot

父は新潟県の山間部で長男として生まれた。上に姉が3人、下に妹が一人。父親、つまり僕の祖父が早くに逝去したので、家族の中で唯一の男子として育った。祖母は女手ひとつで5人の子供を育てなければならなかったので、生活は相当苦しかったようだ。昼夜を問わず働き、山へ薬草を取りに行き、それを売ったりもしていたらしい。

そんな状況にあったので、義務教育を終えた父は「訓練所」に行って大工としての技術を学び、その後工務店で見習いを始めた。彼曰く、「小僧に出た」ということだ。

ご飯を炊いたり掃除をしたり、低い賃金で仕事以外のことも何でもやらされた。意地悪な先輩から嫌がらせも受けた。しかし父はじっと我慢し大工として一人前の技術を身に付け、その後、幸運にも父を見込んでくださった方が経営する地元の小さな建設会社で働き始めた。

どんどん大工としての腕を上げた父は社長の信任も厚く、中卒でありながら独学で二級建築士の資格を取得。貧乏で高校進学ができなかったためか、僕が小さい頃、夜はいつもNHKラジオの「通信高校講座」を聴いていたのを今でも覚えている。勉強したかったんだろうな。

父の資格取得について忘れられない想い出がある。僕が大学在学中、彼は一級建築施工管理技士の資格取得のための講習に、当時僕が住んでいた街にやって来て僕のアパートに1週間近く滞在した。朝は僕が彼のためにお弁当を作り、日中の講習を終えた後、夜は一生懸命勉強していた。

その時、僭越にも父に勉強の仕方を教えてあげた。後年になって酒が入ると、「あの資格はお前が指導してくれたから取れたんだ」と彼が言ってくれたのを、少し嬉しい気持ちで聞いていた。でもそうでないことは僕が一番よく分かっている。彼が一生懸命努力する姿を、一番身近で見ていたのは僕なのだから。

彼は肉体的にも、精神的にも、本当に強い男だった。子供の頃、自転車が壊れたり、グローブの紐が切れたり、どんなことがあっても必ず彼が直してくれた。例えれば、「大草原の小さな家」のお父さんのような存在。僕のヒーローだった。

また、彼は決して人の悪口を言うことがなかった。愚痴をこぼさず、何の道楽もなく、せいぜい盆栽と酒を飲むことくらいが趣味だった。

入院してからも、父はそのままの父であり、何の不満も言わず、「痛い」とか「苦しい」などとは一言も言わずに、その威厳を保ったまま去って行った。何本ものチューブに繋がれ、なかなか血管が浮き出してこないため、何度も点滴の針を差し直され、痛くないはずはなかっただろう。苦しくないはずはなかっただろう。それでも、じっと耐えていた父の姿を僕は一生忘れないだろう。

父のことを書き始めると切がないので、今日はここまでとさせていただく。

冒頭の引用は、19世紀のイギリスの作家、ジョージ・エリオットの言葉から。「死者は我々が忘れてしまうまでは、本当に死んだのではない」。そう。父は5ヶ月前と変わらずに生きている。父の遺影を見るとき、彼の言葉を思い出すとき、彼の好きだったものを食べるとき。彼は間違いなく僕の中で生きている。今、彼に生を与えているのは僕自身なのだ。それは、僕が彼を想いつづける限り、彼はずっと生きていてくれるということなんだ。


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I was in a fantasy -父が逝った日-

2012.11.05 00:25|死生観
それは不思議な感覚だった。夢の中を彷徨っているような、自分が自分ではなく、その意志とは関係なく身体が動いているような…。

2012年6月2日午前0時5分、父が他界した。看護師さんたちが父の身体をきれいにしてくれている中、すぐに父の遺体が家に運ばれるということで、僕は母を始め他の親族に先んじて、病院から自宅へと車で帰った。午前3時頃だっただろうか。

その最中、感じた感覚である。

家へと向かうバイパスの両脇の明かりが、僕をこの世とは違う世界へと導いてくれる灯火のように思えた。

二日間徹夜で父に付き添い、父を見送り、急ぎ帰途についたので、普通の精神状態でなかったであろうことは容易に想像できる。それにしても今までに感じたことのない、神秘的な時間だった。疲労が極限に達した僕を、あたかも父が無事に家へと導いてくれているような。そして、車の隣席には父がいるような。父と最期のコミュニケーションが許された、そんな時だったのだろうと思う。

家に戻ってからは、一気に現実へと引き戻された。父の遺体が到着し、早朝に住職がお経をあげに来、すぐに葬儀屋さんと通夜、葬儀の打ち合わせ。その後は弔問に来てくださった方への対応。心身とも疲労していた僕には、今となっては全く記憶に残っていないほど慌ただしい出来事だったと思う。

今この瞬間から、このブログに記したいストーリーが始まる。正直、父のことを記事にするのはとても辛く、苦しい仕事だ。もうこの世に父が存在しないと考えるだけで、どこにいても、どんな状況であっても止めどなく涙が溢れ出てくる。

それでも、僕はこのブログを書くと決めた。心身とも消耗させられることだが、僕のこの気持ちを誰かに分かち合ってもらいたい。また、何らかのかたちで誰かに良い影響を与えられることもあり得ないとは言えない。だから僕は、この苦しい作業をしばらくの間続けようと思う。今も涙を流しながらタイプしているので、よく画面が見えない。誤字脱字の連続かもしれない。でも、父のため、そして僕自身のため、僕はこのプロジェクトを始めたんだ。

亡き父を誇りに思いながら、そして溢れる涙を止めることができないまま、僕はスタートを切った。


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